天ぷら文化
天ぷらの始まりは南蛮渡来の揚げ物
油で食材を揚げる食べ物は、奈良時代に中国(当時は唐王朝)から唐菓子と呼ばれる、小麦粉を水で練ったものを揚げる食べものが渡来したといわれている。しかし、当時は油が大変貴重で日本人の嗜好に合わなかったため、ごく一部の寺院などに行事食として伝わったのみだった。
鎌倉時代後期~室町時代になると、精進料理として揚げ物料理が再渡来。精進料理の揚げ物は、油で調理することによって不足する脂肪分を摂取しようとするもので、肉や魚を一切使わないいう調理法で、天ぷらとは異なるものだった。
日本の天ぷらの起源とされる衣揚げがポルトガル人によって伝えられたのは、それより少し後の安土・桃山時代になってからのこと。この衣揚げは「長崎天ぷら」と呼ばれ、衣は水を使わずに小麦粉、卵、酒、砂糖、塩を混ぜたもので、厚いフリッター状の衣にはしっかりと味が付いており、食材と衣の両方を味わうものだった。
「長崎天ぷら」は肉や魚を揚げる料理で、精進料理の揚げ物と区別するために、ポルトガル語のtempora(祭日)やtempero(調理)から「天ぷら」と呼ぶようになったといわれている。
17世紀ころになると「天ぷら」は関西方面に渡り、野菜を中心としたタネをごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展していった。寿司や蕎麦と並んで江戸の名物料理として知られる「天ぷら」だが、遅くとも安永年間(1772~1781)には関西から江戸に伝わったとされている。
江戸に伝わって独自の進化と遂げた天ぷら
初めて天ぷらの名前が文献に出てきたのは、1669(寛文9)年の「料理食道記」といわれているが、現在の天ぷらと同じ料理法が文献に登場するのは1748(延享5、もしくは寛延元)年に刊行された「歌仙の組糸」だ。
「歌仙の組糸」では、天ぷらの作り方として、「てんふらは、何魚にでも饂飩(うどん)の粉まぶして、油にて揚る也。但前にあるきくの葉てんふら、又牛蒡(ごぼう)、蓮根、長いも其他何にでもてんふらにせんには、饂飩の粉を水醤油とき塗付て揚る也」という記述があり、このころには現在とほぼ同じ作り方で天ぷらが食べられていたようだ。
その後、次第に油の生産量が増えていき、幕末の文化年間(1804~1818)には、安価なホットスナックとして庶民にも天ぷらが普及していった。当時の様子を描いた絵図を見ると、串に刺したてんぷらが皿に盛られ、その脇に天つゆの入った大きなどんぶりと、大根おろしを盛った器が置かれている。露店売りの天ぷらは、屋台に並べられたタネを選び、その場で揚げたてを提供していた。揚げたものを竹串に刺し、たっぷり天つゆに浸して食べるものだったそうだ。
江戸前の天ぷらはパリパリとした薄い衣よりも、どちらかというと厚めで色も濃かった。現代のように衣をサクッと揚げるには火力がいるが、江戸時代の屋台では難しいため、ゆっくりと時間を掛けて揚げていた。そのため、天つゆや大根おろしを用いることで油のくどさを緩和させたようだ。
江戸で広まった天ぷらは関西のつけ揚げと異なる点がいくつかある。
一番大きな違いは、揚げるタネだ。江戸時代後期の風俗・事物を説明した類書「守貞謾稿」では、天ぷらの食材について「江戸の天麩羅は、あなご、芝えび、こはだ、貝の柱、するめ」と書かれている。
天ぷらは食材がとても重要であるが、江戸の海ではこれらの新鮮な魚介類が獲れた。これが江戸前天ぷらをさらに普及させる要因となったようだ。江戸では魚に限って「天ぷら」と呼び、野菜を揚げたものは「揚げもの」や「精進揚げごまあげ」と呼んだ。
また、使用する油も、関東では卵入りの衣をごま油で揚げることによってキツネ色に揚がる。一方関西の衣は卵を使わず菜種油で揚げるので仕上がりは白くなる。関西で広まった天ぷらは野菜中心だったために、自然の味を損ねないように菜種油で揚げて塩をつけて食べていたようだ。それが江戸ではごま油で揚げるようになったが、これはごま油によって魚の臭みが抑えられるためだ。
庶民の味から高級料理に発展
そんな庶民の食べ物だった天ぷらが高級料理への道を進み始めたのは文化年間(1804~1818)のこと。前出の「守貞謾稿」で「屋台見世は鮨・天麩羅を専らとす。其の他、皆、食物の店なり。天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前に置く」と書かれているように、それまでは屋台売りが多かった天ぷら店だが、このころになると、座って食べられるような居つきの店が増えはじめ、幕末のころになると、さらに「出張天ぷら」と称して、客先に材料と道具を持ち込んで揚げたてを食べさせる商売も出現し人気を集めていった。
文久3(1863)年、浅草黒船町の福井扇夫という男が「せんぷら」という名で大名屋敷などに器具を持ち込んで鮮魚を揚げて出したのが巷で「大名天ぷら」と呼ばれるようになる。これがお座敷で味わう高級天ぷらの起源とされている。
調理法も、屋台に比べてより高温で揚げることができるため、衣も薄くサクッと仕上げられるようになったと思われる。
大正時代に入ると、高級天ぷらはさらに洗練されていく。関東大震災が発生すると、魚介類を中心とした関東風のこってりとしたてんぷらが関西に持ち込まれることになる。同時に、野菜を中心とした関西風のあっさりとしたてんぷらも関東で広がっていった。
そして、昭和初期には油が高価だったことから、お祝いごとや祭りごと、お正月などに食べる特別な料理として認識されるようになる。その後、戦争による食糧不足で、貴重な油を使った料理を楽しむことが困難となり、天ぷらは「贅沢なごちそう」となっていった。
天ぷらを揚げる油も区別されるようになる。屋台の天ぷらはごま油で揚げていたが、高級天ぷらでは、太白油や綿実油などを使い、もしくはごま油とブレンドして揚げている。これらの油を使用することにより揚げ上がりは白くサクサクと軽い口当たりになる。屋台の黒くこんがりとした天ぷらとは差別化を図ったのだ。
天丼の誕生
天ぷらが高級化していく一方で、庶民の食べ物としての天ぷらが派生して天丼も誕生することになる。
天丼が誕生した経緯には、忙しい露天商がご飯の上に天ぷらを乗せて、天つゆをかけて食べたまかない飯という説や、1831(天保2)年創業の「橋善」が、発祥とするなど様々な説がある。「橋善」は閉店するまで、天丼の元祖とも呼ばれていた。
最近では高級天ぷらに見られるサクサクの天ぷらをご飯に乗せて、その上から丼つゆをかける天丼が多い。しかし、江戸前天丼ではご飯と合うよう、衣を厚めにして、揚げたての天ぷらを煮立てた甘辛い丼つゆにどっぷりと浸してご飯に乗せるのが、伝統的な作り方である。たっぷりと丼つゆに浸すことによって、味が天ぷらにまんべんなくい行き渡るだけでなく、丼つゆに油が抜けるため、食べ終わった後の軽さが違ってくるのだ。また、天ぷらをしっとりとさせることで、ご飯との馴染み方も良くなる。
また、天ぷらの揚げ方も、エビを大きく見せるため、衣をたっぷり纏わせた揚げ方が多いが、もともとは、数本のエビをまとめて揚げる「つまみ揚げ」が伝統的な作り方だ。
話が逸れるが、漫才やコントなどで、同じボケを何度も繰り返すことを「天丼」と呼ぶが、これは同じネタを並べるという意味の掛詞で、天丼には必ずエビが2本以上乗っていることが由来とされている。
もともと南蛮から渡来した食べ物だった天ぷらは、江戸の食文化によって進化と遂げ、日本全国に広がり、そして「TENPURA」として、世界でも知られる和食の代名詞となった。大衆路線と高級路線に分かれ、老若男女、場面問わずに味わうことができるのも、天ぷらが愛され続ける要因ではないだろうか。
天國では、昔ながらの作り方を守り気軽に楽しめる天丼、そして特別な日にも利用できるお座敷の高級天ぷらと、二つの楽しみ方で、こだわりの天ぷらを食べることができる。